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八路空軍従軍記 ―――――――― by 大澄国一さん
☆ 1949年、中華人民共和国成立 ―――――――― 2007/05/04 1949年10月1日、中華人民共和国成立――――。北京天安門上で毛沢東 は全中国、全世界に向かって高らかに宣言した。興奮の一日であった。 この国慶式典を海浪飛行場で行う。誘導路に航校全ての飛行機を集め、各機の 前に飛行員・機械員・学生が3人づつ整列して観閲式を行う。この式典には、 初めて航校以外の在牡丹江の、軍・市政府機関の首脳幹部を招待した。 色々な機種がずらりと並んだ様子は壮観であった。式の後、九九高練が9機編 隊で牡丹江市上空を祝賀飛行した。もう国民党空軍から隠れる必要のなくなっ た九九高練は、この日は堂々と人民空軍の姿を市民に見せた。実に気持ちのい い1日であった。 その後も、各地よりアメリカ機材の収集は続けられ牡丹江に送られた。これら の機材を、機務隊が国民党から来たアメリカ機の整備員と共にアメリカ機材専 門の整備班を組織した。 面白かったのは、送られてきたアメリカ製乗用車を見て、自動車隊のある人が 「この車にはチェンジレバーがない……??」と不思議がったそうだ……。 レバーはリモコン式でハンドルのところに付いていた、そういう新式は見た事 もないし、自動車情報もない頃だから無理もない。 また、自動車用余熱機・飛行機エンヂン用余熱機は、ガソリン熱風式の安全な 便利なものが送られてきて、私らは時代が進んでいる事を感じさせられた。 10月初め、于飛さんを主任教官として、国民党から参加の元飛行員の飛行訓 練班が編制され千振飛行場で開始した。学生13人、九九高練3機を使い教官 は、私の他に元乙班の中国人教官二人であった。 短期訓練であったが、宿舎の設備が悪く、風呂もなく、暖房も殆ど効かず寒さ に震えて寝ていた。男ばかりであったが、土曜の夜は皆でダンス会をして楽し んだ。学生達はダンス(跳舞=ティヨウウ)といわず、摩肚皮(モウトゥピィ= 腹こすり)と呼び私とよく踊った。 敵側だった国民党軍から来たといっても、皆朗らかないい人達ばかりであった が、やはりブルジョア気分を漂わせていた。教官では日本人は私只1人であっ たが、彼等は屈託なく付き合ってくれたし、教官としても尊敬してくれた。中 国人というのは腹が大きいというか、包容力があるというか、だから私は中国 人が大好きだという事を再認識した。 ーーーここでの訓練は離着陸の技術回復程度で終わり、吹雪の厳しくなる11 月中旬牡丹江に帰る。 11月末、この年の訓練総括が終わると、来年からの新しい航校組織の編成に 取りかかった。噂では、ソ連の援助で全国に航空学校ができるとの事。全てソ 連式になるという話だった。海浪飛行場では、設備・宿舎の新築工事を始めて おり、瓦礫の後に立派な建物が次々と建てられていった。 この頃に瀋陽にできた日本字新聞「民主新聞社」から日本語新聞が送られてく るようになった。それには、東北各地の残留日本人の様子が知らされていた。 ある日、受け取った民主新聞の尋ね人欄に私の名前が載っていた。ビックリし た。読むと、日本の私の家族からの手紙が中国紅十字会を経て民主新聞社に届 けられていたのであった。早速連絡を取り、数日後その手紙を受け取った。 兄の代筆で母からのものであった…… 敗戦後、八路軍に入って教官をしていると噂に聞いたが、安否が気遣われるの でどうか…どうか探してください、という「趙安博」先生宛の手紙であった。 ―――1950年3月、航校は対外呼称を907部隊と改め、人民解放軍第7 航空学校となった。校長は元教官訓練班の魏堅さんが就任した。
服装も変わった。軍帽も81の赤い☆に金色の翼を 付けた空軍徽章となった。 軍服は上着が薄いグリーン、スボンは紺色となり、 営級幹部以上と飛行中隊長は、特別のラシャ布製で あった。これはソ連空軍を倣ったもので、この年か ら空軍は完全にソ連式の編成と訓練形態となった。 第1から第6航校まではソ連の教官、ソ連製の飛行機を使い、ひとつの学校で 基本操縦から戦闘・爆撃の実技まで一貫訓練を行った。第7航校だけは日本・ アメリカの機材で、日本人・中国人教官による基本操縦訓練を行う。実技はな く、日本機からアメリカ機への移行で高級機訓練を行う。 校部・衛生隊・家族隊は牡丹江市内に残り、飛行中隊・機務隊・訓練処等の教 育関係部署は海浪に集中移住した。 3月末、第7航空学校に第1期生が配属されてきた。今年は皆20歳前後で相 当厳格な検査をパスして選ばれてきたそうである。従来と違うのは兵士出身者 と地方の学生出身者の混成であった。思想的には兵士出身者がリードし、文化 的には学生出身者が援助するという、バランスのとれた編成であった。 又、今までとは違って、教官と学生別々の生活になった。教官は自室と事務室 を別々に持ち、学生は同じ棟ではあるが区切られた学生室と教室で暮らすよう になったので、以前のように教官と学生が部屋で遊ぶような光景は見られなく なった。 教官も又、事務的な仕事や会合が多くなり、日常の暇がなくなった事にも起因 するが、もうひとつは、学生と教官の身分上の区別が厳しくなり、近寄り難く なった事にもよる。そして、学生の個人経歴や性格も、以前程具体的に掴む事 が少なくなった。 この時から、教官は「教員」に、学生は「学員」と呼び方を改めた。……中国 では今もそうだが、職名に「官」を付けない。司令官は司令員、指揮官は指揮 員、指揮官と兵士を含む場合は指戦員といった具合だ。 今期も訓練前の地上教育の充実を図り、絵画教材を多く作って教室に貼った。 日本人教員が、総掛かりで教科書代わりの操縦基準図・航法図・観天望気図・ 飛行場設備図等視覚教育を重視した。というのは、沢山入手したアメリカの航 空教材が、多くの写真・イラストを使い、理解し易くしているのにヒントを得 たからである。 飛行というものが初めての学員にとっては、多くの文字より1枚のイラストの ほうが解りやすいのである。こういう教育面に於いても、日本はアメリカに遅 れていたと思うと同時に、時代の進歩に我々は取り残されていると感じた。 飛行訓練は海浪・温春・蘭崗の3ヶ所に、各飛行中隊として別れて開始した。 学員の数は一挙に今までの3倍になった。青色の新しい飛行帽・飛行服・長靴 ・革ジャンバーが支給され、パラシュートもアメリカ製が使われ、飛行眼鏡も 着用し、今までとは全く面目を一新した。機体にも「八一」の新しい空軍マー クが描かれた。
機体マークの変遷
我々も、これで本当の航空学校だと気分を新たにした。                         = この稿つづく =
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